アナルコ・キャピタリズム研究(仮)ブログ

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人はいかにしてアナルコキャピタリストになるか

ジョン・マクミラン『市場を創る』(原題:REINVENTING THE BAZAAR: A Natural History of Markets)はゲーム理論とその派生理論(情報の経済学、契約理論等)を非明示的に使ったマーケットデザイン(市場における諸制度の設計)に関する本である。

価格理論を暗黙あるいは明示的に使った(古い)経済学入門書とは一線を画しており、とてもおすすめできる。私はかねてから経済学入門はゲーム理論に限ると思っている。「需要と供給の論理」から入るより「個人の最大化(最小化)の論理」および「集団の状況の論理」から入るほうが自然だと考えるのである。

同じ著者による『経営戦略のゲーム理論』(原題:Games, Strategies, and Managers)は数学的説明を最小限に抑えながらゲーム理論を明示的に使った交渉・契約・オークションの理論的説明書で、やはり経済学の入門書としておすすめである。

さて『市場を創る』は世の中の幅広い市場を観察し、それがどういう条件でよく機能するかという分析を本の最初から最後まで行っている。ゲーム理論を経験した者にとってはどれもうなずけるものである。そして同時に市場の良さとすごさもわかる。

おもしろいのは、ここまで市場万歳の本なのにマクミランはリバタリアンを「現実から遊離した推論」「現代経済はリバタリアン原理では機能しえない」として嫌っているということだ。(わざわざ持ち出しているところはリバタリアンと思われたくないのだろう。)市場に対しては民主主義と同じで部分的万歳しかしないというのである。通常の経済学者同様、財産権の保護と公共財供給のために政府は必要である。終わり。となっている。

経済学は実際の経済情勢から影響を受ける。時代に都合のよいものが選択される。もともと経済学をはじめとして社会科学は反市場バイアスなどによって「左」に流れやすい傾向があるだろう。これは全体主義的方向に行くことである。公務員試験ではマルクス経済学は出ないにせよケインズ経済学(古いマクロ経済学)が出題される。これらが重なってめちゃくちゃな理論が平気で流通する。時流に乗り大衆に迎合した発言ができる古い経済学者が大手を振るう。そして以上のことは最初から最後まで価格理論が軽視されることを意味する。下手に文系的学のある人間はリバタリアンになれない。

一方で経済学「だけ」を専門に学んだ人間もリバタリアンにならない。ここでいう経済学とは経済学部で教えられていることという意味である。下手にケインズ経済学を学んでしまう場合はもちろん、正しく価格理論(社会科学の最高峰といえる大きな数学的理論体系)を学んだとしても、理解不足ならばリバタリアンにならないし、十分に理解しても「困ったら政府」的原理の、あるいは反市場バイアスのかかった、専門的応用になってしまう。経済学だけ学ぶとリバタリアンになることは逆に難しいのだ。

社会科学あるいは文系はもともと全体主義で左がかっている。だからそこにリバタリアニズム研究の意義がある。またそれゆえ理系出身者はリバタリアンになりやすい。文系でリバタリアンになるのはハードルが高い。個人の合理性ということに十分注意を払いながら、幅広い社会科学的教養が得られる人でなければならない。

このようにリバタリアンに「選ばれる」ことは難しい。知性の問題というより学問的経験による確率的な選別である。(もちろんここでいうのは「硬い」リバタリアンのことで、「趣味的」「心情的」あるいは「信条的」なリバタリアンもいれば、そうなる理由や経緯も様々であろう。)

そして最後にリバタリアンを通過しアナルコキャピタリストになるのが難関である。これは日常的前提あるいは常識的思考とさえいえるものから離れなければいけない。むしろここが知性といえばいえるだろう。

財産権が十分安全に保護されない未開な状況では政府のようなものが発生するのは自然だと思われる。物理的方法で直接解決するのが手っ取り早い。また公共財と定義される性質を持つものもあるだろうし、それを政府がうまく供給するときもあるだろう。

しかし「財産権の保護と公共財供給のために政府は必要である。終わり。」というのはいろいろな意味で間違っている。私は『市場を創る』と同じ方法、つまり標準的なミクロ経済理論によってアナルコキャピタリストになっているのだ。

その思考停止は(経済学の、あるいは社会科学の)国家バイアスと呼べるものである。それは政府自体の分析が不十分であったり、驚いたことに政府を分析のらち外に置いていたり、また現実に最も財産権を侵害しているのは政府であることを無視したりしている。最悪の場合、最もコントロールすべきものを当然のようにコントロール外に置いているのだ。

政府の問題点を一通り挙げて適当に解決策を述べてみるということで終わってはいけない。最後に政府がない場合まで一応考えておくべきである。国家の呪縛と思考の呪縛。それは本当の意味で自由を失うということであろう。政府のない社会だけを考えるのは哲学・グランドセオリーとして「片手落ち」(三原麗珠あるいはDavid Askewが使った単語。いいですね)であり、その空白を埋めようというのがアナルコキャピタリズムなのである。埋める過程で得るものは多い。
★社会科学の国家バイアス | comments(0) | trackbacks(0) |