アナルコ・キャピタリズム研究(仮)ブログ

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I, 米

自炊はしない主義なのですが、最近、美味しいお米を農家さんから頂き、自分で炊いてみるかということで、炊飯器を買いました。白米でなく、3分から5分づきの玄米が好みです。食味や品種について調べていたところ、次のサイトを見つけました。まさに「わたくし、鉛筆」のお米版です。

「全てのことには人の手がかかっています。特に米という字は、八十八手の手がかかる。と言われるほど。... 大切に米作りをされ、それを大切に運ぶ人がいて、それを大切に精米する人がいて、それを大切に販売する人がいて...。きっと他にも、農機具作っている人、トラックを作っている人、それらを動かすガソリンを掘ってる人、もぉーたくさんの人がかかって、いまこのごはんの一粒一粒が成り立っている。」(お米 通販.com

私たちは分業に慣れきっていて(それは良いことですが)、ほとんど気づかないですが、あらゆる商品は、色んな人の手がかかって出来ています。製造の過程で、個々の様々な利己的な動機が知らず知らずのうちに調整され、最終消費物が出来上がっていくのが市場です。お米の一粒にさえ、元をたどれば無数の人の手と財、すなわち知識と技術が関わっている。その下位にはトラクターや精米機、軽油や電気があり、それらを製造する人々がいる。その下には、、、、(延々)。

鉛筆などの比較的単純な工業製品だけでなく、米などの一次的な農産物にさえ、それが消費財となるまでには、たくさんの人の手がかかっているのです。そしてそれらの無数の知識を効率的に集約するのが、あまねく存在する現世の神、すなわち市場なのです。なかなか存在に気づかないのですが。

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国益とはなんだろう

Harry Browneの著書『Liberty A to Z』によれば、国益とは

 

・完全なごまかし言葉であり

 

・国全体に広がる利益とかではけっしてなく

 

・ある個人や企業、産業、利益団体へもたらされる利益のこと

 

であり、それは

 

・国の大部分の人にとって純損失になるだろう大義を後押しする言葉

 

です。

 

国益という言葉がよく使われるのが国防や外交の分野でしょう。

 

国際問題が生じると、最もろくでなしの政治家が真っ先に訴えるのが戦争です。しかし、善良な市民にとってはそれは最終手段です。このことは上の定義にぴったり当てはまります。政治家が市民のためではなく自分のために世界を平和にしようとするわけです。日本の場合、9条という素晴らしい憲法こそありますが、安全保障条約でアメリカに守られるという安心から、その点では無謀な行動に出る可能性もあります。

 

ところで、どの国とも安全保障条約のようなものは結ばないというのがリバタリアンな外交政策です。よって米軍には日本から撤退してもらわないといけません。また憲法にあるよう、自衛のための活動はよいですが、国際平和維持のための活動には参加すべきではありません。やることはミサイル防衛と国境警備ぐらいでしょう。

 

国防にしても何にしても、政府がすることはすべて政治問題になるのであり、つまるところ特定の人々への利益誘導政治になるのです。

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ポリティカリー・インコレクト・リバタリアン

グレゴリー・スミスさんという、市井のリバタリアンの方のキンドル本がランキング上位に来ていたので買ってみました。

タイトルは『右寄りのリバタリアンによる政治的に正しくない喚き散らし』

たとえば「コロラド乱射事件の真実」という章では、著者は下記のように言います。

1.マスコミはいい銃事件をほとんど取り上げない(武装強盗を銃で撃退したなど)

2.映画の中のバイオレンスは現実と何の関係もない

3.銃のない社会は武装した犯罪者たちの天国である

4.コロラドの悲劇はもっと多くの人が銃を携帯していれば避けられた

5.犯罪が最も多いメキシコが最も厳しい銃規制法をもっている

また「オープンボーダーとリバタリアニズム」という章では、以下のような強いメッセージが書かれています。

「大きな政府をつくるあらゆることを撤廃する前に国境をなくせというなら、あなたはリバタリアンではない」

「リバタリアニズムがポピュラーになるためにはポリティカルコレクトネスと多文化共存主義を捨てなければならない」

著者の言うように、真に自由な社会とは、人種差別が自由で、人種的多様性のない社会なのかもしれません。何より、リバタリアンはきれいごとを言う左翼のようであってはだめなのでしょう。

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民主主義の神話その13: 他に(より優れた)選択肢はない

民主主義に代わるものは独裁制しかないのではと思うかもしれない。だが、それは違う。民主主義に代わる唯一の体制は独裁制ではない。

 

正しい考え方は、車を民主主義的に購入するということの代替選択肢は、独裁者が車を買うということではなく、あなた自身が車を買うということである。

 

民主主義より優れた政治体制は考えられる。たとえばであるが、現在のような大きな国家でなく、小さいコミュニティに分かれることはできないのだろうか。

 

どの民主主義国家も「国民国家」であり、その下にある州や市は離脱・独立できない。もし州や市といった小さな単位で、独立して政府が運営され、競争が起これば、効率化につながるだろう。

 

人々はもしある州の法律が厳しいと思ったら、別の州に行くことができる。もしある市の税金が重いと思ったら、他の市に引っ越せる。

 

人々は「足による投票」ができる。あるいは自分の好む制度を購入できるのである。

 

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 13 - There is no (better) alternative

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民主主義の神話その12: 我々は皆、民主主義者である

ある人が毎日チキンを食べるのを強制されており、チキンが好きだと発言するとしよう。これは信用できない。彼にチキンを食べない自由があってこそ、その発言は信頼できる。
民主主義についても同じことが言える。民主主義は強制である。全員それに参加しなければならない。誰も離脱の自由がない。そういう状況で民主主義が好きだと言う人を信じることはできない。
人々が民主主義を支持してしまうのは、自分たちのある程度の繁栄を今暮らしている政治システムのおかげであると考えたり(じっさい因果関係はないのに)、税金をとられない世界というのを想像するのが難しかったり、あるいは子供の頃から民主主義に代わる体制は独裁制しかないと教えられてきたからであろう。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 12 - We are all democrats
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民主主義の神話その11: 人々は望むものを得る

たとえば教育について考えてみよう。無気力教師、暴力・いじめ、学力低下など問題ばかりである。これは私たちの望むものではない。

 

民主主義が足りないから、これらの問題は起こるのだろうか?いや、逆である。民主主義が機能した結果がこれなのである。すなわち、中央の政治家と官僚が、教育を独裁的に組織することが原因なのだ。

 

教育予算の配分、学校の認可、授業内容など、あらゆることを政府が決める。それはまるで旧ソ連にあった国営工場である。出てくる製品の品質は最悪だ。むしろ量ばかり重視する。消費者の需要をさっぱり理解していない。何の技術的革新もない。とにかく政府がバックにいる独占のため、改善のインセンティブが皆無なのである。そのくせ、政治家たちはもっと予算と権限をくれ、そうすれば悪いところを直せるのだと言う。

 

同じことは、医療や警察などのパブリックセクターにあてはまる。

 

もっと個人に、ビジネスに任せよう。人々の望みを叶えるのは民主主義でなく市場なのである。政府に選択させるのではなく、個人に選択させるのだ。本当に「民主的」というのはこういうことである。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 11 - People get what they want in a democracy)

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民主主義の神話その10: 平和を促進し、政治腐敗との闘いにも資する

国際政治においては、民主主義国家は良い奴で、そうでないのは悪い奴ということになっている。民主主義国家は平和を愛しているのだ。でもそれは本当だろうか?

 

民主主義が最も進んだ国であるアメリカはこれまでに数々の戦争を起こしてきている。無防備な市民を爆撃したし、原爆も落とした。米軍は世界100ヶ国に700以上の基地をもっている。

 

民主主義国イギリスはアフガニスタンやインド、ケニアなど、多くの植民地の独立を抑えた。やはり民主主義国家のオランダはインドネシアの独立を、フランスはインドシナの独立を阻んだ。ベルギーやフランスのような民主主義国はアフリカで多くの汚い戦争を戦った。近年でもアメリカはイラクやアフガニスタンと戦争を行ない、何千人もの無実の人々を殺した。

 

第2次世界大戦以降、西側の民主主義諸国は戦争をしておらず、その大きな理由はNATOだと思われるが(別に「マクドナルドのある国は互いに戦争をしない」という法則もある)、逆に言うと、非民主主義国家に対する戦争は容認されており、もし世界のすべての国が民主主義国家なら戦争は起こらないという考えが背後にある。

 

むしろ民主主義は戦争を促進していると言えるかもしれない。民主主義が普及する前の18世紀までは、徴兵制度もなければ、人々が他国を憎むということもなかった。民主主義のナショナリスト国家がこれを変えた。国家による徴兵はフランス革命のフランスで初めて行なわれたのだ。

 

民主主義とナショナリズムを同列に扱うのはおかしいと思うかもしれない。だがこの2つのイデオロギーは、ある理由で同時に広まったものなのである。民主主義は「人々による」政府という意味であるが、この考えがナショナリズムを擁護した。すなわち、民主主義的権利には民主主義的義務が伴う。一票を投じる権利があるのだから、引き換えに国のために戦う義務がある、というわけだ。

 

第1次世界大戦―それは20世紀の全体主義国家と第2次世界大戦につながった―は、大部分が民主主義国家によって行なわれたということを忘れてはいけない。そこではナショナリズム民主主義が古典的リベラリズムを追いやってしまったのだ。

 

アメリカは「世界を民主主義のために安全にしよう」というウィルソンの有名なスローガンとともに参戦したが、もしアメリカ市民がリバタリアン的な孤立主義を守っていれば、すなわち建国の父たちに忠実であったなら参戦はしなかっただろう。

 

さて民主主義が政治的透明性や説明責任を保証するとはよく言われることである。だが、事実は、選挙で選ばれるために票を必要とし、そのために腐敗するということだ。利益誘導型政治はアメリカに広く蔓延している。

 

いっぽうで発展途上国の政治も民主主義と手を取り合いながら腐敗している。ロシアやイタリア、フランス、ギリシャも同じである。いずれにせよ政府が力をもつと政治腐敗は避けられないのである。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 10 - Democracy promotes peace and helps to fight corruption)

 

 

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民主主義の神話その9: 自由と寛容に等しい

自由と民主主義はセットで来るかのように思っている人は多い。じっさいは互いに正反対のものである。民主主義では政府の決定から逃れられる人はいないのだ。命令に従わなければ罰せられる。この意味では独裁制と基本的に違いはない。

 

民主主義がまだ崇められていなかったころ、アリストテレスはこう書いた。「制限されない民主主義は、少数による大多数への暴政と変わるところはない。」

 

自由とは多数派に従わなくていいということであり、自分に決定権があるということだ。

 

人々の自由な契約への干渉は、ある人々を利するかもしれないが、必ずある人々に害を与える。たとえば、人々を解雇から守ることはある人々に利益を与えるが、経営者に新しい人々を雇用する気をなくさせる。厳しい労働法のもとでは、できるだけ人を雇わないのが得策になる。景気のいい時でさえもだ。低スキルの労働者はとりわけ排除されやすくなる。仕事を持つ人々も高失業率に怯えて転職を躊躇するようになる。

 

民主主義は、国家が人々に行動を命令するというだけではない。あらゆる物事について、国家から許可を得なければならないのだ。われわれの自由は国家によって認められているのであり、いつでも取り消される。

 

スウェーデンでは、高アルコールの酒は国営の店からしか買えない。多くの国で売春は違法だが、ノルウェー人の場合はとくに、海外で買春することも違法である。オランダでは家の外装を変えるのに政府の許可がいる。これらのことは、独裁政治であり、自由ではない。

 

民主主義では少数派に対する寛容はなく、とりわけ言論の自由もない。どんな民主主義国家も、言論の自由を制限するあらゆる法律がある。オランダでは女王を侮辱することは禁止されている。アメリカでは「わいせつ」「名誉毀損」「扇動」「ハラスメント」「企業秘密」「機密文書」「著作権」など言論の自由についてじつに様々な例外規定がある。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 9 - Democracy equals freedom and tolerance)

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民主主義の神話その8: 連帯感のために必要である

連帯感と民主主義はよく結び付けられるが、それは違う。民主主義とは言ってみれば税金略奪闘争における適者生存の論理なのだから、連帯感とはまったく逆だとも言える。

 

民主主義のもと、みんなで物事を決定しなければ、国民の一体感が失われると思うかもしれない。たしかにある意味において国家はコミュニティの一種であり、それは良いものでもありうる。けっきょく人は一人で生きられないし、経済的理由からも仲間を作る必要があるからだ。

 

だが、そういう一体感のために、はたして民主主義というのは必要なものなのだろうか?

 

人々は言語、文化、そして歴史を共有する。しかし、これらは何ら民主主義とは関係がない。民主主義より前に存在したし、これからも民主主義なしで存在できる。

 

同時に、どんな国でも多くの地域的・民族的コミュニティが国内に存在し、それぞれが強い連帯をもっている。しかし、これらは民主主義的でない社会、すなわち自由社会と共存できるものなのだ。

 

重要な点は、これらの地域的・民族的コミュニティが自発的なつながりであるということである。つまり政府によって強制されたものではない。

 

たとえば入会したテニスクラブが合わなかったら、いつでもやめられるし、あるいは自分でクラブを立ち上げることができる。しかし、ある政府が管理する国にたまたま生まれついたら、そこから逃れることはできない。

 

民主主義とは強制的に会員にさせられる組織である。いっぽう、真のコミュニティとは自発的な参加に基づくものである。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 8 - Democracy is indispensable to a sense of community)

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民主主義の神話その7: 人々が調和の中で生きていくために必要不可欠である

友達のグループでどこのビーチに行くかを決めるという程度なら、多数決で解決が図れるかもしれない。でも大抵の場合、問題解決に多数決というのは必要がないし、実際、そういう民主主義は争いを引き起こすことのほうが多いのである。

 

民主主義は個人的な問題を集団的問題に変え、個人を民主的決定に従わせることで、調和というよりも、対立を生み出すのだ。

 

義務教育はどうあるべきだとか、高齢者医療にいくら使うべきだとか、あらゆることが「民主的」に決められる。そして人々の間に対立と緊張を引き起こすのである。だが本来、こういう問題は、人々に自分自身で選択させ、責任を取らせることで、簡単に解決できるのだ。

 

もし、どの種類のパンを毎日どれぐらいの量焼くべきかを民主的に決定するとしたらどうだろう。終わりのないロビー活動、政治キャンペーン、討論会、ミーティング、抗議集会が繰り広げられるだろう。全粒粉支持者が多数を得て、補助金を獲得し、ことによると白パンを禁止するかもしれない。

 

民主主義の不幸な帰結は、それが人々に集団を形成させやすいために、集団間の争いを必然的に招くということである。というのも多数派の集団に属しているときにのみ、あなたの考えが法律になるからだ。

 

老人は若者と対立し、農民は都市住民と対立し、移民は住民と対立し、キリスト教徒はイスラム教徒と対立し、信者は無神論者と対立し、労働者は経営者と対立する。あるグループは同性愛を罪であると考える一方、あるグループは学校教材に模範になるゲイを載せよと言う。考え方が違えば違うほど、大きな衝突になる。

 

信教の自由は何世紀も前に発展し、宗教間の対立を減らしてきた。だが今日、民主主義がそれと同じようにあらゆる分野で人々の間に緊張を生んでいるということに、ほとんどの人が気付いていないのである。

 

(参考: Frank Karsten, Karel Beckman, Beyond Democracy, Myth 7 - Democracy is necessary to live together in harmony)

 

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